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祝福と呪い

 

今私たちの前には神様から2つの道が用意されています。ひとつは祝福、もうひとつは呪いと書かれています。知っておくと必ず役立つ情報です。私たちが聖霊様に満たされると呪いから解放されます。

 

「キリストは私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。」

(ガラテヤ三・一三)。

 

 イエス様に使われたローマ軍の死刑道具、十字架はラテン・クロスという種類の、十字の形をもち縦の木が横の木よりも長く、樹皮をはぎ、葉をむしり取っただけの荒削りの木でした。木の高さは明確ではありませんが、ハマンの立てさせた後に自分がつけられた柱の場合、王妃の宴会の席から見えるように高さ二十二メートルもある特別高いものでした。

ここでハマンに使われた柱のヘブル語はスタウロスすなわちこの柱は十字架です。しかし、イエス様に使われた十字架の柱は、頭上の岩棚に見せしめのため大きく掲げた罪状書きが道行く通行人にもはっきり読めるような高さにあり、ロ―マ兵のわき腹への槍や、酔い葡萄酒を葦の棒につけたものを伸ばすと、届くぐらいの一般的な高さでありました。

 

 私たちがこの十字架を見る時、それは救いのシンボルであり、象徴的な意味合いもよく、縦の木が横の木よりも長いことは天と地を結ぶ神様との縦の関係を横の人間関係よりも、もっと長くしっかりと第一に結ぶことを教えており、十字架は更に全ての否定的、破壊的なマイナス要素さえも肯定的、建設的、創造的なプラス思考へと変えてしまう、不可能を可能にした神様の力を現わす美しいものです。

 

ところが同じ十字架を律法を知る全てのユダヤ人が見る時、それは呪いの象徴であり、木に架けられたイエス様こそ呪われた者であると考えられ、軽蔑の対象として見下げる者となったのです。(申二一・三三)。

 

 呪いとは、創世記三:一七~十八で始めの人間アダムが罪を犯してから全世界に入って来た罪の報いです。アダムゆえ土地は呪いを受け、どんなに額に汗して種まき、労働して期待しても、そこからはただ土地をふさぎ、人を害する無益ないばらやあざみが生じてきたのです。

今日も知らずに呪いに満ちた環境に入っていき、そこで種を蒔いて失望を刈り取っている人が多くあります。聖書には「いばらの中に種を蒔くな。」(エレミヤ四・三)とありますが、成功的な良き実を結ぶ人生のためにはまず、いばらを焼き払ってから、種を蒔かなければ全てが無駄になってしまいます。

いばらは食べられる実を結ばない植物であり、建設資材の角材にもならない無益に土地をふさぎ、人々が忌み嫌う全くの呪いの象徴です。環境から、まずいばらのような呪いを取り除くことが先決課題です。

 

呪いは信じないと言う人もおりますが、聖書では、明らかに世界には命と死、祝福と呪いが実在し、私たちもその子孫も命を得るように祝福を選ぶよう勧めています。(申三〇・一九)。

 

  世には祝福のゲリジム山に立つような人生もあり、呪いのエバル山に立つような人生もあります。(申一一・二九)。それは一種の法則のようなものであり、信者であってもなくても、地上にいる限り、全ての人がいずれかの影響力を背後に受けながら生活しているのです。

 

申命記には、主がモ―セに命じて結ばれた祝福と呪いの法則について、その契約にはその当時まだ生まれていなかった今日の私たちをも含まれていると言われました。

「しかし、私は、ただあなたがたとだけ、この契約とのろいの誓いとを結ぶのではない。きょう、ここで、私たちの神、主の前に、私たちとともに立っている者、ならびに、きょう、ここに、私たちとともにいない者に対しても結ぶのである。」(申二九・一四、一五)。

 

祝福と呪いの法則の対象は私たちも例外ではありません。この世でも国家には法律があり、社会には道徳があり、会社には社内規則、学校には学則、道路にも交通法規があります。そして、これらの法則を一方的に無視して、反した社会行動をとるならば、それ相応の制裁を身に招くことになります。もし国の法律に反すると逮捕されて罰せられます。道徳を無視すると世間に白い目で見られ阻害されます。社内規則を破ると減給や出世の遅れ、解雇、免職もあります。学則を破ると停学や退学もあり、交通法規を破ると事故に遭います。

  ちょうどこれらと同じように霊の世界にも法則があったのです。霊の世界のゲリジム山とエバル山とは、イエス様を信じた私たちに与えられた命の御霊の原理と、世にある罪と死の原理です。命の御霊の原理とは簡単に言うと、私たちが真剣に祈れば祈るほど、命の源イエス様に近づき、それに比例して祝福されるものであり、罪と死の原理とは、聖書に反する行ないにより、我が身に招く呪いです。

それゆえ、誰でもこの呪いの原理に誤って、巻き込まれないように細心の注意を払い、聖書に従って生きることが幸福の秘訣です。

 

イエス様は私たちを呪いという暗闇のベールの中から救い出すため十字架の木につけられたのです。

その時、イエス様の御頭にはあのエデン以来の呪いの産物、いばらで編んだ冠が置かれていたのです。郊外のゴルゴダ丘周辺に生じていたイエス様の王冠に使われたいばらとは、植物分布によるとイスラエルの十七種類あるいばらの中でも最もトゲが鋭く、厳しい、「とげわれもこう」品種であり、束にしてかまどや火鉢の火付け用として使うかエルサレム周辺では侵入者防止用の生け垣に使うほどの堅い物だったのです。このいばらは一本のトゲが五から六センチはある、鋭い針の集合体であり、ローマ兵はこれで蛇がどくろを巻くようにぐるぐる巻きにして王を皮肉る王冠を作り、イエス様の御頭に押しつけたのです。

 

王冠とは普通その性質上、王の富貴と栄華を現わすものとして、高価な金や銀で作られ、そこには数々の美しい宝石が散りばめられている結果として重量があります。

ダビデ王の頭に置かれた王冠の場合、宝石がはめ込まれており、金一タラントに匹敵する三十四キロもの重量がありました。(Ⅰ歴二〇・二)。

そのため王冠とは、軽い帽子とは異なり、王が頭に乗せた後はギュッと押さえつけて頭からずり落ちないように固定する必要があります。

 

イエス様の御頭にはいばらで作った王冠です。それゆえローマ兵によりイエス様の御頭に無理やり乗せられた冠は、次に固定のためギュッと押さえつけられたのです。このためイエス様の御頭は、人間の中で最も大切な脳のある頭から突き刺され、引き裂かれる激痛と共に、額の上で貴い血潮が流れ出たのです。イエス様は私たちの呪いを除くために身代わりとして、頭から足先まで呪いをかぶられ、呪われた者だけが架けられるはずの十字架の木につかれたのです。

 

神様の偉大な犠牲のゆえにどんなに大きな感謝を捧げたらよいのでしょうか。イエス様こそ永遠にたたえられる栄光の王の王です。私たちの呪われた生活を祝福へと変化するために主は来られたのです。イエス様の血潮は今も呪いに対抗しているのです。

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